上田敏雄ホームページのバージョンアップを行いました。
また、年譜を更新しました。
なお、慶応義塾大学予科入学年については、証跡となる文書は見つかっていないため、
参考文献(森川信夫、2006、『やまぐちの文学者たち』、やまぐち文学回廊構想推進協議会 )をもとに、大正11年(1922)としていますが、山本博信 氏より諸説あると伺っております。
なお、慶応義塾大学卒業年については、卒業証書(原本)より、昭和2年(1927年)であることを確認しています。
詩人上田敏雄について調べています。
上田敏雄ホームページのバージョンアップを行いました。
また、年譜を更新しました。
なお、慶応義塾大学卒業年については、卒業証書(原本)より、昭和2年(1927年)であることを確認しています。
『世紀の花環 友よ担わん』には、世紀=時代から花を贈られるように努力する、そしてそれを友と共に担えるよう日々努力しなさい、との意が込められています。え、そうなの?初耳である。やはり、意図を知ることができるのは嬉しい。
上田先生の作品は、第1回の委員会の意見を十分に汲みとって大幅に手を加え装を新たにしたものになっていた。それはいわば原作を母体として教職員学生の英知を結集して練り上げられたものになっていたといえよう。歌詞は上田敏雄が変えただけではなく、大勢の方の意見を結集したものだったようだ。
上田敏雄はいわゆる戦争詩を一篇も書かなかった。これはきわめて重要なことである。
上田敏雄の詩に関して一文を求められたとき、ぼくはとっさに上田敏雄の戦中のことを考えた。上田敏雄の戦争詩についてぼくの記憶がなかったからである。手元の二百冊をこえる戦争詩関係の資料に全部当たってみた。そこにはいわゆるモダニストと称されていた、村野史郎、安西冬衛、北園克衛らをはじめとするあらゆる代表的な詩人の激烈な戦争詩があった。わが敬愛する滝口修造ですら、悪名高き「辻詩集」に名を連ねている。(むろん滝口修造はいかにも苦しげだしそれを戦争詩と呼ぶことはためらわれるのだが。)その「辻詩集」にも上田敏雄の名前は見当たらない。ぼくはさらに、戦争詩についてはぼくの「太平洋戦争下の詩と思想」をはるかに上廻る詳細なデータに、裏づけられた桜本富雄の「詩人と戦争」、「詩人と責任」の労作にも当たってみた。ここにも上田敏雄の書いた戦争詩の報告は見出せなかった。ぼくは今まで何回か上田敏雄論を書いてきたが、うかつにもこの点を見落としてきた。これは重大な失態といわねばなるまい。ぼくはいちど上田敏雄本人にも会っている。生きているうちになぜ戦争詩を書かなかったかと、これはどうしても問うてみるべきであったと、氏の死を知らされて悔むばかりである。上田敏雄のシュルレアリスム理解については、ぼくはいままでずっと否定的な見解をとり続けてきた。しかし、戦争詩からまったくのがれえたのが西脇順三郎と上田敏雄のたった二人の詩人のみであったことを考えれば、この二人こそ日本のシュルレアリスムの一側面を、二人ながらにシュルレアリスムを逸脱する形で、なを充全に体現した詩人であったのだといえなくもない。
上田敏雄がシュルレアリスムの精神を根拠にして戦争詩を否定したのかどうか、ぼくはそれを証明する資料に恵まれていない。しかしなにが上田敏雄をしてそうさせたかは別にして、当時戦争詩を一切書かず沈黙を守り切った事実は、今後もっと注目されねばならないと思う。 <以後略>私は、現在この鶴岡氏の疑問に関して追加する情報を持っていないことをここに付記する。私は祖父母が生きているうちに戦争について直接聞いたことがなく、また、私が母に聞いた範囲では、母も祖父母からこの件について聞いたことはないそうである。
192909 | 「詩四篇」 | 『文芸レビュー』(昭和4年9月) |
192909 | 「A.B.C」 | 『文芸レビュー』(昭和4年9月) |