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2020年8月30日日曜日

上田敏雄 ホームページ・年譜更新

上田敏雄ホームページのバージョンアップを行いました。

また、年譜を更新しました。

なお、慶応義塾大学予科入学年については、証跡となる文書は見つかっていないため、
参考文献(森川信夫、2006、『やまぐちの文学者たち』、やまぐち文学回廊構想推進協議会 )をもとに、大正11年(1922)としていますが、山本博信 氏より諸説あると伺っております。

なお、慶応義塾大学卒業年については、卒業証書(原本)より、昭和2年(1927年)であることを確認しています。



2019年5月12日日曜日

上田敏雄 著作リスト更新

山本氏からの情報に基づき、ホームページの作品一覧リストを追加更新いたしました。
引き続きリストの精査に努めたいと思います。


<追加更新>
発行年月 作品名 詩誌名・書籍名(巻号、年月)
194104 「燃焼する水族館」 『新領土詩集』
195009 「駱駝よ」 『駱駝』4号
195011 「樫よ」 『駱駝』5号(昭和25年11月20日)
195106 「君の手に」『駱駝』8号(昭和26年6月)
195107 「雉子」 『現代山口懸詩選』一九五一年版 磯永秀雄編
195107 「強い男性の」『駱駝』9号(昭和26年7月)
195112 「それは石の獅子の・・・」『Doline』創刊号
195202 「我らの生命に變れ」『Doline』2号
195202 「猫の女よ」『駱駝』14号(昭和27年2月)
195208 「樹々は嵐を呼べ」注:未刊詩集『眞珠の戦士』より『日本詩人全集』第六巻昭和篇(1)
195208 「混乱した風景を」注:未刊詩集『眞珠の戦士』より『日本詩人全集』第六巻昭和篇(1)
195210 「夜の渦巻に」 『埴輪』創刊号
195211 「證」 『エスポワール』2号
195212 「シガレットの女よ」『DEMAIN』2 
195212 「あの黒く大きく亂れた波頭は・・・」『駱駝』22号(昭和27年12月)
195301 「蝶よ 君を締めあげる鎖によって」『駱駝』23号(昭和28年1月)
195303 「燃え墜ちた」『駱駝』24号(昭和28年3月)
195310 「朝の合唱」『駱駝』29号(昭和28年10月)
195401 「磔刑圖」『DEMAIN』4
195406 「自轉車」『ぎんなん 創刊号』
195409 「野師」『ぎんなん 2号』
195412 「ほしがあらわれた?」『ぎんなん 3号』
195505 「寂しい人たち」『DEMAIN』7
195607 「アダムの歴史のために」『DEMAIN』8
195611 「画布の台風 」 『詩學 11-13』
195701 「Current Topics ー<人類+α>の思想についてー」『DEMAIN』9(1957年1月20日)
196112 「別の美学II -アイコンとイエス・キリストの対極の研究ー」『DEMAIN』10(1957年8月15日)
195711 「Holy Communion」 『詩学」(昭和32年12月)
1958xx 「別の美学 III -虚無と恩寵ー」『DEMAIN No.11』
195909 「聖霊 -Essay on Monad ー」『詩学」(昭和34年9月)
196303 「労働者の肖像 Essay on the City of Man Neo Surrealism Manifestist」『駱駝』86号(昭和38年3月)
196409 「讃美歌のためのアルゴ The Letter to the Romans」『THE HIBARIBUE 24』
196411 「意味論 -宗教対藝術・ゲロンチョンを媒介としてー」『宇部工業高等専門学校研究報告』第1号
196510 「Mr. Bloom's Day ージョイス研究ー」 『宇部工業高等専門学校研究報告』第2号
196511 「讃美歌のためのアルゴ」『駱駝』100号記念号(昭和40年11月)
196703 「討たれた天使/判じ絵」『宇部高専第一期生卒業文集 『友』』
196803 「マリア像/判じ絵」 『宇部高専第二期生卒業文集 『友』』
196903 「霊の狩猟/判じ絵」 『宇部高専第三期生卒業文集 『友』』
196901 「歌のこころ」注:コラムに寄せた一文『宇部高専 学校だより』
197204 「人魚の唄※GENESIS・赤の四角※」『中国詩集1972』(1972年4月20日)
197406 「教会芸術」『詩学』6月号 ※「詩人と詩と思想」特集号
197505 「腹腹時計」『瀬戸内海詩集』1975年版
197607 「冬」<1925年新人賞再掲> 『詩学 31-7』

2019年3月17日日曜日

2019年3月16日土曜日

宇部高専の校歌誕生にまつわるエピソード


2019年は上田敏雄に関するイベントイヤーである。

公益財団法人山口県ひとづくり財団が1月から3月にかけて全3回の講座「山口のモダニスト上田敏雄」を開催中。また、4月から7月にかけては、中原中也記念館が「企画展 沸騰する精神ーー上田敏雄」を開催予定である。

私は山口県に何度も足を運ぶことは難しく、遠くから見守っている。

そんな折、ふと宇部高専のホームページを覗いてみたところ、アップデートされており、校歌の由来と校歌の誕生にまつわるエピソードが掲載されていた。

『世紀の花環 友よ担わん』には、世紀=時代から花を贈られるように努力する、そしてそれを友と共に担えるよう日々努力しなさい、との意が込められています。
え、そうなの?初耳である。やはり、意図を知ることができるのは嬉しい。

校歌を読み、最も違和感を感じたのは、2番の「男の子の生命 友よそそがん」。
高専の女子学生の割合も高くなっているはずであり、なんだか申し訳ない気持ちがする。

おじいちゃん、女の子も英語や科学技術を学びますよ、と伝えたくなる。

祖父は女子も勉学に励み自立することを奨励していたと聞いているが?
そもそもこの文章は、上田敏雄らしからぬようにも思える。

続けて「校歌の誕生にまつわるエピソード」ページを読むと、作詞途中の直筆原稿が掲載されており、最終的な歌詞とはかなり違うものである。
かつ「男の子の生命 友よそそがん」などと書かれてはいない。

上田先生の作品は、第1回の委員会の意見を十分に汲みとって大幅に手を加え装を新たにしたものになっていた。それはいわば原作を母体として教職員学生の英知を結集して練り上げられたものになっていたといえよう。
歌詞は上田敏雄が変えただけではなく、大勢の方の意見を結集したものだったようだ。

悩ましい作業だったことと想像するが、完成した際にはきっと嬉しかったであろう。




2016年8月15日月曜日

鶴岡善久の「上田敏雄の戦中戦後」

 毎年8月6日と8月15日は、戦時下を生きた祖父母達について思いをはせる機会をもたらす。

 今日もまた上田敏雄の追悼特集が組まれた『歴象 98』の鶴岡義久氏の「上田敏雄の戦中戦後」を読み返したので、その一部をここに共有しておきたい。

 上田敏雄はいわゆる戦争詩を一篇も書かなかった。これはきわめて重要なことである。
 上田敏雄の詩に関して一文を求められたとき、ぼくはとっさに上田敏雄の戦中のことを考えた。上田敏雄の戦争詩についてぼくの記憶がなかったからである。手元の二百冊をこえる戦争詩関係の資料に全部当たってみた。そこにはいわゆるモダニストと称されていた、村野史郎、安西冬衛、北園克衛らをはじめとするあらゆる代表的な詩人の激烈な戦争詩があった。わが敬愛する滝口修造ですら、悪名高き「辻詩集」に名を連ねている。(むろん滝口修造はいかにも苦しげだしそれを戦争詩と呼ぶことはためらわれるのだが。)その「辻詩集」にも上田敏雄の名前は見当たらない。ぼくはさらに、戦争詩についてはぼくの「太平洋戦争下の詩と思想」をはるかに上廻る詳細なデータに、裏づけられた桜本富雄の「詩人と戦争」、「詩人と責任」の労作にも当たってみた。ここにも上田敏雄の書いた戦争詩の報告は見出せなかった。ぼくは今まで何回か上田敏雄論を書いてきたが、うかつにもこの点を見落としてきた。これは重大な失態といわねばなるまい。ぼくはいちど上田敏雄本人にも会っている。生きているうちになぜ戦争詩を書かなかったかと、これはどうしても問うてみるべきであったと、氏の死を知らされて悔むばかりである。上田敏雄のシュルレアリスム理解については、ぼくはいままでずっと否定的な見解をとり続けてきた。しかし、戦争詩からまったくのがれえたのが西脇順三郎と上田敏雄のたった二人の詩人のみであったことを考えれば、この二人こそ日本のシュルレアリスムの一側面を、二人ながらにシュルレアリスムを逸脱する形で、なを充全に体現した詩人であったのだといえなくもない。 
 上田敏雄がシュルレアリスムの精神を根拠にして戦争詩を否定したのかどうか、ぼくはそれを証明する資料に恵まれていない。しかしなにが上田敏雄をしてそうさせたかは別にして、当時戦争詩を一切書かず沈黙を守り切った事実は、今後もっと注目されねばならないと思う。 <以後略> 
私は、現在この鶴岡氏の疑問に関して追加する情報を持っていないことをここに付記する。私は祖父母が生きているうちに戦争について直接聞いたことがなく、また、私が母に聞いた範囲では、母も祖父母からこの件について聞いたことはないそうである。

 本題からずれるが、個人的な話をすれば、直接言葉で伝えられようが伝えられまいが、先人の生き様を想い、自分の生き方にどう活かすのかが重要だと思っている。山口に居た両親は広島に原爆が投下された時を子供ながらに覚えており、母は東京の空襲も覚えており、私に伝えた。「次の世代に伝えていくことが大切」だと言われるが、伝える目的は、伝えられた私達の世代が行動に活かすためであろう。

2015年10月25日日曜日

上田敏雄の著作リスト変更(修正)

ホームページの上田敏雄著作リストの下記作品名を修正しましたので、お知らせします。

修正前:
192909「詩四篇」『文芸レビュー』(昭和4年9月) 

修正後:
192909A.B.C『文芸レビュー』(昭和4年9月) 

Twitterでご連絡いただいた内容に応じて、修正をかけました。
自身による初稿の確認は、まだ出来ておりません。

確認作業は現在遅々として進まない状態ですが、今後ある段階に至った際は、
原文の確認ができた作品とそうでないものは明確に示したいと思っております。

ご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

2015年7月11日土曜日

「日本超現実主義詩論」読後

数週間前、上田敏雄の「日本超現実主義詩論」が載っている『詩と詩論』を手にした。
読後感はショック、そう、正直にショックという単語が脳裏に浮かんだ。

「此の三千大千世界の百億の日月、<略>、シューランガマスートラの中に広く説くが如し。」と
始まる長文。続く詩論を読破する前に、私の頭の中に般若心経が流れてきた。

その後、子供の頃に父方の祖母から推薦された本、倉田百三の『出家とその弟子』を読んだ。それから、下記の本も読んだ。

 『「意識」とは何だろうか-脳の来歴、知覚の錯誤』 下條伸輔 
 『考えすぎる脳、楽をしたい遺伝子』 長沼毅 
 『解説ヨーガ・スートラ』 佐保田鶴治 

人間科学、生物化学、そしてインドのサーンキャ哲学をめぐって、現在の着地点は、般若心経のサンスクリット語版。昔から気になっていた箇所である「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」の発音は「ぎゃていぎゃてい」というよりはむしろ「がーてーがーてー」のように聞こえる。本人としては嬉しい発見である。

そして今日、あらためて「日本超現実主義詩論」と対峙する。題名の「日本」の意味は何かという疑問を抱いたが、上田敏雄は必ずしも文章の内容を題名にする作家ではないからと自問自答。
やれやれ、すっかり振り回されてしまったようだ。

2015年6月21日日曜日

vers à soie avec métallique oraganes sexuels

"Philological papers, 1993, Volume 39, West Virginia University" 54ページに下記の記述がある。
An aspect of French Surrealism was the tolerance of sexuality explicit material from the subconscious, usually a result of the non-filtering of thought in automatism. Kitasono, Nishiwaki, and most of the other Japanese Surrealists, however, rarely referred to genitals or sex. One exception is the line, “I lick virgin Cleopatra's vagina”from an Ueda Toshio poem. Perhaps Toshio's Cleopatra is a “Virgin” because his consciousness of women was limited to the madonna or prostitute syndrome, desiring women to be both chaste and lusty. Nevertheless Toshio was at least liberated enough not to edit out such messages.
“I lick virgin Cleopatra's vagina”という一文は性器に言及しているというのは事実といえるが、"Perhaps"(恐らく)以降の文は筆者の想像または感想でしかなく根拠は述べられていない。

『衣装の太陽』の原文を読むと、該当する一文の前後は下記である。
処女クレオパトラは金属製のorganes sexuels を持った蚕である暖まつた天使は世界の驚異でありました 私は処女クレオパトラのvaginaを舐めます赤い飛行船の上の少女クレオパトラを抱いた赤い色の天使は瞞着する最も愛らしい天使です
作品の読み方や解釈は読み手の自由だ。自分が原文を読まない限り他人の感想文のみ頭に残ることになる可能性がある。私はそれは嫌である。

本来作品全体を掲載したいところだが、ここでは原文の一部を共有しておきたい。


2015年5月17日日曜日

上田敏雄の著作リスト追加

上田敏雄の著作に関する貴重な情報をいただきました。特に、下記のご指摘により作品名を正すことができました。ありがとうございます。
「孤独或は死後の夢想」『花卉幻想』3年1号(昭和4年1月)
※当該『花卉幻想』の目次は誤っています。目次上は「胸像の仮面」が上田敏雄となっていますが、本文を見るとこれは山田一彦の小説。上記タイトルが上田敏雄の詩作品です。
 「詩人のページに著作一覧は必須」という叔母の発言はごもっともなので着手はしたものの、ここ何ヶ月も放置していたところ。

叔母からY先生が上田敏雄の作品集を出したいというようなことをおっしゃっていたが、ご高齢のため作業困難と聞いたのは昨年のこと。

率直なところ、実現困難。疎開する際に多くの本を処分せざるを得ず、戦争で東京の家は消失したこともあり、戦前の作品は上田家にもあまりないとのこと。

でも、北園克衛の初期作品集を作ろうと古い詩誌を調査している方がいると知ったことで、私も少しづつでもやってみようとやる気が出た。(今日のところは)

上田敏雄は子孫が全作品を列挙できるなど思いもせず笑い飛ばす気がするので気楽にやろう。
できるところまででも、いつかどこかのどなたかの参考になる日があれば未来につながる作業だ。

*下記に頂いた情報を共有しておきます*

192608 「化粧屋の監視兵」『戦車(甲栄社版)』1巻2号(大正15年8月)
192610 「三部作」『詩歌時代』1巻6号(大正15年10月)
192704 「形而上学」『文芸耽美』2年3号(昭和2年4月)
192704 「後期芸術派作品」『文芸』5巻4号(昭和2年4月)
192705 「希臘の時計」『新年』9号(昭和2年5月)
192706 「天使集」『街』7輯(昭和2年6月)
192707 「菫と動物」『新年』10号(昭和2年7月)
192804 「POEM POUR NATURE」『黄表紙』2巻3号(昭和3年4月)
192807 「L'ELEGANT/L'ENCLUME DES FORCES」 『黄表紙』2巻4号(昭和3年7月)
192901 「孤独或は死後の夢想」『花卉幻想』3年1号(昭和4年1月)
192906 「裂かれた森を貝殻の脳髄が梳いた」『ファンタジア』1輯(昭和4年6月)
192906 「Rien ou prince d anto cratie」『文芸都市』(昭和4年6月)
192907 「COGNITION NOVELLE?」『Cine』4号(昭和4年7月)
192910 「LE SOURIRE SEDUISANT」『Cine』5号(昭和4年10月)
192911 「天主に世界の滅亡を告ぐ」『文学(第一書房版)』2号(昭和4年11月)
193001 「超現実主義の概説」『国民新聞』(昭和5年1月13日)
193003 「ABSOLUITE DE L'ART」 『文学』6号(昭和5年3月)
195107 「僕らを」『尖塔』2号(1951年7月)
195111 「此狼の群」『尖塔』3号(1951年11月)
195203 「一本の針金で…」『尖塔』5号(1952年3月)
195210 「明るい星よ…」『尖塔』8号(1952年10月)
195310 「雨の東京」『尖塔』9号(1953年10月)
195402 「耳寄りな話」『尖塔』11号(1954年2月)
195403 「自転車」『尖塔』12号(1954年3月)
195404 「雨の宣告」『尖塔』13号(1954年4月)
195405 「鰐」『尖塔』14号(1954年5月)
195406 「桃あるいはぼろの機械類」『尖塔』15号(1954年6月)
195407 「玩具の鳥」『尖塔』16号(1954年7月)
195408 「野師」『尖塔』17号(1954年8月)
195409 「★」『尖塔』18号(1954年9月)
195410 「南泉説法」『尖塔』19号(1954年10月)
195412 「ほしがあらわれた?」『尖塔』21号(1954年12月)
195503 「不評判な大陸」(評論)『尖塔』22号(1955年3月)
195506 「禅問答」(評論)『尖塔』23号(1955年6月)
197307 「虎が森のなかを歩く」『詩と思想』2巻7号(1973年7月)
197511 「ECRITURE」『舟』2号(1975年11月)

以上

2015年4月1日水曜日

詩人の腸内細菌

腸内細菌は今日も歌う
何のために生きて死ぬのか

我々の宇宙に
生死を握る神は果たしているのか

かしこい諸君はおわかりのはず
答えはYes & No

餌をあげるか否か
握っているのは人間様

日々細菌がバトルして死ぬのは
人間様のアウトオブコントロール

かしこい諸君はおわかりのはず
答えはYes & No

餌をあげるか否か
握っているのは神様

日々人間がバトルして死ぬのは
神様のアウトオブコントロール

詩人は今日も歌う

何のために生きて死ぬのか

詩人の腸内細菌が全滅しても
詩人は歌うだろうか


どびんご

2015年1月16日金曜日

「神秘説」 『文芸耽美』より

インターネットをブラウジングしていたらTwitterで見つけた。

記録によれば、1927年、上田敏雄が大学を卒業して間もなくの頃、『文芸耽美』に出したもの。

おじいちゃん、今の時代でも作品を読んでいてくれる人がいて良かったね。


2014年12月30日火曜日

作品を読んでみようトライアル掲載実施中

ホリデイに読書はいかが?興味のある方はクリック↓
https://sites.google.com/site/toshioueda1900/works/published


好評なら時々作品を掲載しようかな

2014年11月28日金曜日

白髪のピストル 上田敏雄 1964 『現代山口県詩選』

白髪のピストル

~聖霊はヨセフのピストルを使用する~

8個のランプをもちたまえ
男をおくるために
階段を



彼女は
海へ
愛人を投げすてる
自由を蛸らにと
祈るのだ

自由のために海は燃えるだろう

8個のピストルをぶらさげる兵士は
至上命令のために行動する
永遠に
1羽の鳥を撃て
と神は命じている

諸君はそれを疑っていない
万国の労働者
諸君は撃つだろう

街上のピストルの騒音

なぜなら
この西部劇を愛さない
神は
オートモビールで
スクリーンを消えたまえ

8個のドラムをたたく人間

短かく 短かく
シッポを刈り込むサルたち
キリスト教徒より神の顔をよく見る
SPECTACLES
を愛用したまえ諸君は

(ルーレットをころがれ
君(FICTION)
1個の球よ)

見給え

消燈した爬虫類である
8個の自動車の吼える言語を
くいあらす
荒野の新しい兵器をv

イエス・キリストは攻撃する
散弾の手段で
POETASTERを 諸君を

Oct. 8, 1959
それは民衆の祈りの物質である
8個のピストルと8個の角砂糖
OASISの食卓に等しい

十字架のプレゼント
世界内にコンバートする黒猫
をおくるミリオネヤは神だろうか.



引用終


楽しみました?






なんで8?
Oct.8 って?
オクトパ?
オクトパス?
自由を蛸らにと



2014年11月23日日曜日

「神について」 『三田文学』 より

 上田敏雄はなぜ神を詩作にとりいれるようになったのだろうか?

 上田敏雄の作品の調査を始め一覧にしてみてわかったことがある。

 「神」が出てくるのは1948年11月戦後初めて『三田文学』に発表された「主は働き給ふ」である。

 そしてその3ヶ月後、『三田文学』に「神について」を書いている。

 西脇順三郎、山本健吉、上田敏雄が「神について」という題で記した文章の始まりを引用する。

 まず西脇順三郎は、

 原君、君はわざわざ病身の身体を動かして、僕を二度も訪ねて来て、「神について」六枚書けと頼んだのだから、どうしても書きたいのだが、この問題ばかりは、避けたいのだ。それは僕は弱い人間で、この問題は僕には大きすぎる。
そして約二枚執筆。

 次に山本健吉は、
 "Jesus Christ!"といふ若い女のいとも朗らかな叫び声の中に、現代の神が象徴されている。神の姿なぞ誰の頭の中にも宿っていやしない。あるのはただ浮薄な言葉ばかりだ。

 そして最後に上田敏雄は、

 詩人の官能の中に、神は神として来ない。絶望の火として来るこの雷の足跡には、併し、 実に神の臭がする。私は文学作品を詩人のInventionであるとする立場をとらない。文学の組織を神のInventionに依る、神のdeviceに依るとする立場の方を好む。詩人は神の創立経営指導する工場の労働者であってよいと思ふ。従って、文学の中心は不変で進歩を欠いていてよいと思ふ。
  神とするのは、処女マリアより生れ、十字架にかかり、三日にして甦り給ふた神の子イエスクリストである。諸氏は、詩人としてこれは妙な趣味ではないかと尋ねられるかも知れない。果して、さうだらうかと、僕は反問したい。この際諸氏が些か滑稽味を覚えられるなら、それは諸氏の神観念が滑稽であるに過ぎぬのではあるまいか。僕の意見としては、これはこの世で一番辛い胡椒であると思ふ。
 原さんという人が西脇順三郎に六枚依頼したようなので、上田敏雄は西脇順三郎に声をかけられて応じたのだろうか。

 いずれにしろ、芸術の自律的なメカニズムを認める立場から、カトリシズム・仏教思想等の外部からの概念導入なしに芸術世界の成立はないという立場に変化したのは、戦後からのようである。

 鶴岡善久は、上田敏雄の追悼号である『歴象98号』に「上田敏雄の戦中戦後」というエッセイで「上田敏雄はいわゆる戦争詩を一篇も書かなかった。これはきわめて重要なことである。」と記している。また「戦前の「仮説の運動」と戦後しばらくしてからのドグマ的カトリシズムの時代にはさまれた、上田敏雄の戦中戦後は今後もっと真剣に考えてみなければならない問題を内包しているようにぼくには思われる。」とも記している。

 第二次世界大戦が上田敏雄に影響を与えたと想像するのは難しくない。東京の空襲を経験し、家は大空襲で消失。戦争で兄弟と甥を失った。

 上田敏雄はキリスト教や仏教に関する多くの書物を読んでいる。戦争の経験から、キリスト教を研究するようにいたったのだろうか?

 辛い体験をした人が、宗教に入信するということは耳にする。しかし、上田敏雄の「神について」の文章を読む限り、いわゆる信者が述べそうなこととは異なり、一歩ひいた立場で思考を組み立てながら執筆している様子がうかがえる。

 上田敏雄は書いている。「この際諸氏が些か滑稽味を覚えられるなら、それは諸氏の神観念が滑稽であるに過ぎぬのではあるまいか。」 私は、滑稽だと思った一人である。上田敏雄が「この世で一番辛い胡椒」にどうアプローチしていくのか、続きを読んでみたくなった。

2014年9月9日火曜日

敏雄節  <雨が街路樹をかむカニの鋏>

    <引用始>
雨が街路樹をかむカニの鋏
そして告白したい女である光線がしゃべり出す
日本語は孤独なビルの階段を
ダチョウなどよりも早く駆けおりて
東京の夜の内部に出没するモーターカーたちに明滅し
ぼくらのリヴィング・ルームの窓ガラスをぶちこわして
父の花束をほうりこむのだ
<引用終>

パラフィン紙に包まれた蒼い表紙を開くとワインレッド
上田敏雄の詩集『薔薇物語』をぱらぱらとめくる

引用したのは62ページの一部
「讃美歌のためのアルゴ」の一部

この詩の「父」は誰をさしているでしょう?「アルゴ」って何でしょう?
ナンテことよりも

祖父の書いた文を読むと感じる独特のリズムが好き
敏雄節!


<雨が街路樹をかむカニの鋏>
<そして告白したい女である光線がしゃべり出す>

シャレている
こんな文は私の頭から出てこない

祖父が「神学の概念の詩学への導入」を試みたから
キリスト教のカトリックに挑んだから

もともと神学から距離を置いて生きてきた私は
祖父の『薔薇物語』には近づきがたい

それでもなんだか時々読んでしまうのは
カニの鋏やダチョウのおかげ♪
 
 
 

2014年7月21日月曜日

祖父母の誕生日

今日は上田敏雄の誕生日。
私は祖父母全員の誕生日を覚えている。
「あ、誕生日だ。」と想いだして過ぎさる。

自分が歳を重ねれば重ねるほど
祖父母の生き方に興味がでてきた。
全員長寿なので老い方も遠目で観た。

”生かされていることのありがたみ”を
日々感じながら心身とも健康に老衰したい。
祖父母からのDNAがあるから心強い。

何が書きたいのかな?つぶやいているだけです。

今日は、「おめでとう」のかわりに「ありがとう」。
おじいちゃんのおかげで、親族と連絡をとる
ことができました。

これからも見習って生きます。





2014年5月30日金曜日

鈴木大拙先生の”生きるということの芸術家”

 上田敏雄は、宇部高等専門学校の校歌を作詞した頃を振り返ったエッセイの文中に、「たまたま当時、鈴木大拙先生のアメリカでのご講演で述べられているお考えからも、大いに触発されておりましたわけです。」と記している。

 上田敏雄が禅、仏教思想について研究していたのは知っていたが、鈴木大拙氏のことは、この文を読んだ時に初めて知った。印象に残るのは、”生きるということの芸術家”という文句である。下記に引用する。
「我々はだれもが皆科学者たることは望み得ない。しかし人間たる以上誰でも芸術家であることを許されている。芸術家といっても、画家とか、彫刻家、音楽家、詩人というように特殊な芸術家を指して言うのではない。”生きているということの芸術家”(artist of life)なのである。”生きることの芸術家”などと言えば、一寸何か変にきこえるかもしれないが、実際のところ、我々は皆、”生きることの芸術家”として生れてきているわけである。ただ悲しいかな、我々のほとんどは、生きていることそのことがすごいARTであることを知らず、ついに、”人生、生きることの意味とはなんだろう” ”眼の前にあるものは無意味なタダの空虚ではないか”などとあさましい妄想にふけってはあたら一生を台なしにしてしまうのがオチです。」
いつもながらきびきびした先生の独断場であるジカに物の核心にせまる例の調子にあおられましたか、当時、小生も、「貧者の一灯に点じる人生の芸術」の実体を作曲化せんとする身の程知らずに、うつつを抜かしながら、焦心のうちに幾日かを過した苦い思い出があります。
鈴木大拙という名は、他のエッセイ「歌のこころ」にも出てくる。
ご存知の鈴木大拙さんが、「禅というものは地獄の野っ原のただ中で、大の字に寝そべるようなものだ」といわれたという話があります。これはもちろん不貞腐されているわけでなく、禅と念仏とでは性分の合わぬところもあろうが、親らんの他力の教えにも、地獄をそのままで極楽に転換するという仕掛けができています。
鈴木大拙氏の著作を読んでみたいと思う。

 それにしても、上田敏雄は、
作者の力量不足のお蔭で、結局「点火失敗」の幕切れということになりましたものの、もしも上記の「灯の主題」の音楽化に、当時、成功していましたら、ジョン・ケージと前衛音楽賞をわけあう幸運が舞いこんだものをと、滑稽にも、今でもいちまつの心残りを棄て得ないのです。
とエッセイをまとめており、おもしろい。

 「貧者の一灯に点じる人生の芸術」の実体を作曲化せんとする人がいたこと自体、人生の持つ意
味を観念的に知りたいと思う人々にとって、喜ばしいことではないだろうか。



 

2014年3月30日日曜日

異次元の獅子へ

今日は
虎も馬も
獅子を想う
どびんごは
獅子に問う

どびんごは
渡り鳥?
ニワトリ?
自然鳥?
人工鳥?

人間神を
信仰すればよい
毎日毎日
食べて寝れれば
それがなにより
それが生きること
感謝しなさい
そう言った
鳥神様を
信じればよい

どびんごは
わからない
鳥神様のコトバも
人間神のコトバも
観念的に
生きる意味は
問わない
信じるものは
コトバではない

獅子ヨ 
世界ヲ開ケ!
その瞬間
どびんごハ 
感性デ飛ブ!

2014年3月28日金曜日

日本初のシュール シュルレアリスム Surréalisme Surrealism

日本の文学史上、初のシュルレアリスム宣言として知られる「A NOTE DECEMBER 1927」は、上田敏雄が起草し、北園克衛と上田保と連名で『薔薇・魔術・学説』に発表された。下記に引用する。

吾々は Surréalisme に於ての芸術欲望の発達あるひは知覚能力の発達を謳歌した我々に洗礼が来た 知覚の制限を受けずに知覚を通して材料を持ち来る技術を受けた 吾々は摂理に依る Poetic Operation を人間から分離せられた状態に於て組み立てる 此の状態は吾々に技術に似た無関心の感覚を覚えさせる 吾々の対象性の限界を規するのに Poetic Scientist の状態に類似を感ずる 吾々は憂鬱でもなく快活でもない 人間であることを必要としない人間の感覚は適度に厳格で冷静である 吾々は吾々の Poetic Operation を組み立てる際に吾々に適合した昂奮を感じる 吾々は Surréalisme を継続する 吾々は飽和の徳を讃美する
        Kitasono Katue Ueda Toshio Ueda Tamotsu

私自身は、「吾々の対象性の限界を規するのに Poetic Scientist の状態に類似を感ずる」という一文がひっかかる。Poetic Scientist? 面白い。私はMaster of Science である。科学、特に自然科学と詩学につながりを感じることはなかった。今は、超自然に挑む科学があるように、超現実に挑む詩学があるのはわかる気がする。

2014年3月21日金曜日

上田敏雄の遺作 『「存在を問う」とは?』

春分の日、祝日、来たる3月30日の祖父上田敏雄の33回忌にむけて、祖父の筆跡を追っている。
2年前に私が手元に持っていた祖父の作品は母から借りていた詩誌の1つの作品だった。
それから叔母や家族の協力を得て、今では数百の作品名の情報と数十の原本に囲まれている。

今の今まで、『キリスト・リアリズムの演出 「啓示・リアリティ」の問題』(『1981、暦象』第96号)が祖父の遺作だと思っていた。祖父のことを調べ始めて最初の頃に読んだ『やまぐちの文学者たち』に、それが「最後のエッセイとなる」と記されていたからだ。

ところが、山口県詩人懇話会の代表の方が、今回あらためてまで調べてくださった結果を見ると、『「存在(リアリティ)を問う」とは?』(1981、『現代山口県詩選』)の方が約1ヶ月発刊日が遅い。調べてくださったのは昨年のことだが、実際に両作品の原本と発行日情報を見て、遺作は『「存在(リアリティ)を問う」とは?』なのだと私は今日明白に認識した。

発行年だけでは、どちらが後かわからないと思い、電話で発行月の確認をお願いしたところ、ご丁寧に発行月日を確認してくださった。本当にありがたい。ちなみに、その際に、他にも1982年に祖父が泣くなった後に発刊された追悼文に書かれていた内容が、現在に残る原本とは異なることも判明した。正確な情報を現在および後世に残したいと考える私からすれば、”重大事件”だった。

約30年で、人間が”事実”が何かを確認することは容易ではない。過去を調べる者は、今の私のようにヒヤっとしたり、また時には跳んで喜ぶような発見をしたような気分になるものなのだろう。

作品名はホームページに発行順に記載する。