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2014年5月30日金曜日

鈴木大拙先生の”生きるということの芸術家”

 上田敏雄は、宇部高等専門学校の校歌を作詞した頃を振り返ったエッセイの文中に、「たまたま当時、鈴木大拙先生のアメリカでのご講演で述べられているお考えからも、大いに触発されておりましたわけです。」と記している。

 上田敏雄が禅、仏教思想について研究していたのは知っていたが、鈴木大拙氏のことは、この文を読んだ時に初めて知った。印象に残るのは、”生きるということの芸術家”という文句である。下記に引用する。
「我々はだれもが皆科学者たることは望み得ない。しかし人間たる以上誰でも芸術家であることを許されている。芸術家といっても、画家とか、彫刻家、音楽家、詩人というように特殊な芸術家を指して言うのではない。”生きているということの芸術家”(artist of life)なのである。”生きることの芸術家”などと言えば、一寸何か変にきこえるかもしれないが、実際のところ、我々は皆、”生きることの芸術家”として生れてきているわけである。ただ悲しいかな、我々のほとんどは、生きていることそのことがすごいARTであることを知らず、ついに、”人生、生きることの意味とはなんだろう” ”眼の前にあるものは無意味なタダの空虚ではないか”などとあさましい妄想にふけってはあたら一生を台なしにしてしまうのがオチです。」
いつもながらきびきびした先生の独断場であるジカに物の核心にせまる例の調子にあおられましたか、当時、小生も、「貧者の一灯に点じる人生の芸術」の実体を作曲化せんとする身の程知らずに、うつつを抜かしながら、焦心のうちに幾日かを過した苦い思い出があります。
鈴木大拙という名は、他のエッセイ「歌のこころ」にも出てくる。
ご存知の鈴木大拙さんが、「禅というものは地獄の野っ原のただ中で、大の字に寝そべるようなものだ」といわれたという話があります。これはもちろん不貞腐されているわけでなく、禅と念仏とでは性分の合わぬところもあろうが、親らんの他力の教えにも、地獄をそのままで極楽に転換するという仕掛けができています。
鈴木大拙氏の著作を読んでみたいと思う。

 それにしても、上田敏雄は、
作者の力量不足のお蔭で、結局「点火失敗」の幕切れということになりましたものの、もしも上記の「灯の主題」の音楽化に、当時、成功していましたら、ジョン・ケージと前衛音楽賞をわけあう幸運が舞いこんだものをと、滑稽にも、今でもいちまつの心残りを棄て得ないのです。
とエッセイをまとめており、おもしろい。

 「貧者の一灯に点じる人生の芸術」の実体を作曲化せんとする人がいたこと自体、人生の持つ意
味を観念的に知りたいと思う人々にとって、喜ばしいことではないだろうか。