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2014年12月30日火曜日

2014年11月28日金曜日

白髪のピストル 上田敏雄 1964 『現代山口県詩選』

白髪のピストル

~聖霊はヨセフのピストルを使用する~

8個のランプをもちたまえ
男をおくるために
階段を



彼女は
海へ
愛人を投げすてる
自由を蛸らにと
祈るのだ

自由のために海は燃えるだろう

8個のピストルをぶらさげる兵士は
至上命令のために行動する
永遠に
1羽の鳥を撃て
と神は命じている

諸君はそれを疑っていない
万国の労働者
諸君は撃つだろう

街上のピストルの騒音

なぜなら
この西部劇を愛さない
神は
オートモビールで
スクリーンを消えたまえ

8個のドラムをたたく人間

短かく 短かく
シッポを刈り込むサルたち
キリスト教徒より神の顔をよく見る
SPECTACLES
を愛用したまえ諸君は

(ルーレットをころがれ
君(FICTION)
1個の球よ)

見給え

消燈した爬虫類である
8個の自動車の吼える言語を
くいあらす
荒野の新しい兵器をv

イエス・キリストは攻撃する
散弾の手段で
POETASTERを 諸君を

Oct. 8, 1959
それは民衆の祈りの物質である
8個のピストルと8個の角砂糖
OASISの食卓に等しい

十字架のプレゼント
世界内にコンバートする黒猫
をおくるミリオネヤは神だろうか.



引用終


楽しみました?






なんで8?
Oct.8 って?
オクトパ?
オクトパス?
自由を蛸らにと



2014年11月23日日曜日

「神について」 『三田文学』 より

 上田敏雄はなぜ神を詩作にとりいれるようになったのだろうか?

 上田敏雄の作品の調査を始め一覧にしてみてわかったことがある。

 「神」が出てくるのは1948年11月戦後初めて『三田文学』に発表された「主は働き給ふ」である。

 そしてその3ヶ月後、『三田文学』に「神について」を書いている。

 西脇順三郎、山本健吉、上田敏雄が「神について」という題で記した文章の始まりを引用する。

 まず西脇順三郎は、

 原君、君はわざわざ病身の身体を動かして、僕を二度も訪ねて来て、「神について」六枚書けと頼んだのだから、どうしても書きたいのだが、この問題ばかりは、避けたいのだ。それは僕は弱い人間で、この問題は僕には大きすぎる。
そして約二枚執筆。

 次に山本健吉は、
 "Jesus Christ!"といふ若い女のいとも朗らかな叫び声の中に、現代の神が象徴されている。神の姿なぞ誰の頭の中にも宿っていやしない。あるのはただ浮薄な言葉ばかりだ。

 そして最後に上田敏雄は、

 詩人の官能の中に、神は神として来ない。絶望の火として来るこの雷の足跡には、併し、 実に神の臭がする。私は文学作品を詩人のInventionであるとする立場をとらない。文学の組織を神のInventionに依る、神のdeviceに依るとする立場の方を好む。詩人は神の創立経営指導する工場の労働者であってよいと思ふ。従って、文学の中心は不変で進歩を欠いていてよいと思ふ。
  神とするのは、処女マリアより生れ、十字架にかかり、三日にして甦り給ふた神の子イエスクリストである。諸氏は、詩人としてこれは妙な趣味ではないかと尋ねられるかも知れない。果して、さうだらうかと、僕は反問したい。この際諸氏が些か滑稽味を覚えられるなら、それは諸氏の神観念が滑稽であるに過ぎぬのではあるまいか。僕の意見としては、これはこの世で一番辛い胡椒であると思ふ。
 原さんという人が西脇順三郎に六枚依頼したようなので、上田敏雄は西脇順三郎に声をかけられて応じたのだろうか。

 いずれにしろ、芸術の自律的なメカニズムを認める立場から、カトリシズム・仏教思想等の外部からの概念導入なしに芸術世界の成立はないという立場に変化したのは、戦後からのようである。

 鶴岡善久は、上田敏雄の追悼号である『歴象98号』に「上田敏雄の戦中戦後」というエッセイで「上田敏雄はいわゆる戦争詩を一篇も書かなかった。これはきわめて重要なことである。」と記している。また「戦前の「仮説の運動」と戦後しばらくしてからのドグマ的カトリシズムの時代にはさまれた、上田敏雄の戦中戦後は今後もっと真剣に考えてみなければならない問題を内包しているようにぼくには思われる。」とも記している。

 第二次世界大戦が上田敏雄に影響を与えたと想像するのは難しくない。東京の空襲を経験し、家は大空襲で消失。戦争で兄弟と甥を失った。

 上田敏雄はキリスト教や仏教に関する多くの書物を読んでいる。戦争の経験から、キリスト教を研究するようにいたったのだろうか?

 辛い体験をした人が、宗教に入信するということは耳にする。しかし、上田敏雄の「神について」の文章を読む限り、いわゆる信者が述べそうなこととは異なり、一歩ひいた立場で思考を組み立てながら執筆している様子がうかがえる。

 上田敏雄は書いている。「この際諸氏が些か滑稽味を覚えられるなら、それは諸氏の神観念が滑稽であるに過ぎぬのではあるまいか。」 私は、滑稽だと思った一人である。上田敏雄が「この世で一番辛い胡椒」にどうアプローチしていくのか、続きを読んでみたくなった。

2014年9月9日火曜日

敏雄節  <雨が街路樹をかむカニの鋏>

    <引用始>
雨が街路樹をかむカニの鋏
そして告白したい女である光線がしゃべり出す
日本語は孤独なビルの階段を
ダチョウなどよりも早く駆けおりて
東京の夜の内部に出没するモーターカーたちに明滅し
ぼくらのリヴィング・ルームの窓ガラスをぶちこわして
父の花束をほうりこむのだ
<引用終>

パラフィン紙に包まれた蒼い表紙を開くとワインレッド
上田敏雄の詩集『薔薇物語』をぱらぱらとめくる

引用したのは62ページの一部
「讃美歌のためのアルゴ」の一部

この詩の「父」は誰をさしているでしょう?「アルゴ」って何でしょう?
ナンテことよりも

祖父の書いた文を読むと感じる独特のリズムが好き
敏雄節!


<雨が街路樹をかむカニの鋏>
<そして告白したい女である光線がしゃべり出す>

シャレている
こんな文は私の頭から出てこない

祖父が「神学の概念の詩学への導入」を試みたから
キリスト教のカトリックに挑んだから

もともと神学から距離を置いて生きてきた私は
祖父の『薔薇物語』には近づきがたい

それでもなんだか時々読んでしまうのは
カニの鋏やダチョウのおかげ♪
 
 
 

2014年7月21日月曜日

祖父母の誕生日

今日は上田敏雄の誕生日。
私は祖父母全員の誕生日を覚えている。
「あ、誕生日だ。」と想いだして過ぎさる。

自分が歳を重ねれば重ねるほど
祖父母の生き方に興味がでてきた。
全員長寿なので老い方も遠目で観た。

”生かされていることのありがたみ”を
日々感じながら心身とも健康に老衰したい。
祖父母からのDNAがあるから心強い。

何が書きたいのかな?つぶやいているだけです。

今日は、「おめでとう」のかわりに「ありがとう」。
おじいちゃんのおかげで、親族と連絡をとる
ことができました。

これからも見習って生きます。





2014年5月30日金曜日

鈴木大拙先生の”生きるということの芸術家”

 上田敏雄は、宇部高等専門学校の校歌を作詞した頃を振り返ったエッセイの文中に、「たまたま当時、鈴木大拙先生のアメリカでのご講演で述べられているお考えからも、大いに触発されておりましたわけです。」と記している。

 上田敏雄が禅、仏教思想について研究していたのは知っていたが、鈴木大拙氏のことは、この文を読んだ時に初めて知った。印象に残るのは、”生きるということの芸術家”という文句である。下記に引用する。
「我々はだれもが皆科学者たることは望み得ない。しかし人間たる以上誰でも芸術家であることを許されている。芸術家といっても、画家とか、彫刻家、音楽家、詩人というように特殊な芸術家を指して言うのではない。”生きているということの芸術家”(artist of life)なのである。”生きることの芸術家”などと言えば、一寸何か変にきこえるかもしれないが、実際のところ、我々は皆、”生きることの芸術家”として生れてきているわけである。ただ悲しいかな、我々のほとんどは、生きていることそのことがすごいARTであることを知らず、ついに、”人生、生きることの意味とはなんだろう” ”眼の前にあるものは無意味なタダの空虚ではないか”などとあさましい妄想にふけってはあたら一生を台なしにしてしまうのがオチです。」
いつもながらきびきびした先生の独断場であるジカに物の核心にせまる例の調子にあおられましたか、当時、小生も、「貧者の一灯に点じる人生の芸術」の実体を作曲化せんとする身の程知らずに、うつつを抜かしながら、焦心のうちに幾日かを過した苦い思い出があります。
鈴木大拙という名は、他のエッセイ「歌のこころ」にも出てくる。
ご存知の鈴木大拙さんが、「禅というものは地獄の野っ原のただ中で、大の字に寝そべるようなものだ」といわれたという話があります。これはもちろん不貞腐されているわけでなく、禅と念仏とでは性分の合わぬところもあろうが、親らんの他力の教えにも、地獄をそのままで極楽に転換するという仕掛けができています。
鈴木大拙氏の著作を読んでみたいと思う。

 それにしても、上田敏雄は、
作者の力量不足のお蔭で、結局「点火失敗」の幕切れということになりましたものの、もしも上記の「灯の主題」の音楽化に、当時、成功していましたら、ジョン・ケージと前衛音楽賞をわけあう幸運が舞いこんだものをと、滑稽にも、今でもいちまつの心残りを棄て得ないのです。
とエッセイをまとめており、おもしろい。

 「貧者の一灯に点じる人生の芸術」の実体を作曲化せんとする人がいたこと自体、人生の持つ意
味を観念的に知りたいと思う人々にとって、喜ばしいことではないだろうか。



 

2014年3月30日日曜日

異次元の獅子へ

今日は
虎も馬も
獅子を想う
どびんごは
獅子に問う

どびんごは
渡り鳥?
ニワトリ?
自然鳥?
人工鳥?

人間神を
信仰すればよい
毎日毎日
食べて寝れれば
それがなにより
それが生きること
感謝しなさい
そう言った
鳥神様を
信じればよい

どびんごは
わからない
鳥神様のコトバも
人間神のコトバも
観念的に
生きる意味は
問わない
信じるものは
コトバではない

獅子ヨ 
世界ヲ開ケ!
その瞬間
どびんごハ 
感性デ飛ブ!

2014年3月28日金曜日

日本初のシュール シュルレアリスム Surréalisme Surrealism

日本の文学史上、初のシュルレアリスム宣言として知られる「A NOTE DECEMBER 1927」は、上田敏雄が起草し、北園克衛と上田保と連名で『薔薇・魔術・学説』に発表された。下記に引用する。

吾々は Surréalisme に於ての芸術欲望の発達あるひは知覚能力の発達を謳歌した我々に洗礼が来た 知覚の制限を受けずに知覚を通して材料を持ち来る技術を受けた 吾々は摂理に依る Poetic Operation を人間から分離せられた状態に於て組み立てる 此の状態は吾々に技術に似た無関心の感覚を覚えさせる 吾々の対象性の限界を規するのに Poetic Scientist の状態に類似を感ずる 吾々は憂鬱でもなく快活でもない 人間であることを必要としない人間の感覚は適度に厳格で冷静である 吾々は吾々の Poetic Operation を組み立てる際に吾々に適合した昂奮を感じる 吾々は Surréalisme を継続する 吾々は飽和の徳を讃美する
        Kitasono Katue Ueda Toshio Ueda Tamotsu

私自身は、「吾々の対象性の限界を規するのに Poetic Scientist の状態に類似を感ずる」という一文がひっかかる。Poetic Scientist? 面白い。私はMaster of Science である。科学、特に自然科学と詩学につながりを感じることはなかった。今は、超自然に挑む科学があるように、超現実に挑む詩学があるのはわかる気がする。

2014年3月21日金曜日

上田敏雄の遺作 『「存在を問う」とは?』

春分の日、祝日、来たる3月30日の祖父上田敏雄の33回忌にむけて、祖父の筆跡を追っている。
2年前に私が手元に持っていた祖父の作品は母から借りていた詩誌の1つの作品だった。
それから叔母や家族の協力を得て、今では数百の作品名の情報と数十の原本に囲まれている。

今の今まで、『キリスト・リアリズムの演出 「啓示・リアリティ」の問題』(『1981、暦象』第96号)が祖父の遺作だと思っていた。祖父のことを調べ始めて最初の頃に読んだ『やまぐちの文学者たち』に、それが「最後のエッセイとなる」と記されていたからだ。

ところが、山口県詩人懇話会の代表の方が、今回あらためてまで調べてくださった結果を見ると、『「存在(リアリティ)を問う」とは?』(1981、『現代山口県詩選』)の方が約1ヶ月発刊日が遅い。調べてくださったのは昨年のことだが、実際に両作品の原本と発行日情報を見て、遺作は『「存在(リアリティ)を問う」とは?』なのだと私は今日明白に認識した。

発行年だけでは、どちらが後かわからないと思い、電話で発行月の確認をお願いしたところ、ご丁寧に発行月日を確認してくださった。本当にありがたい。ちなみに、その際に、他にも1982年に祖父が泣くなった後に発刊された追悼文に書かれていた内容が、現在に残る原本とは異なることも判明した。正確な情報を現在および後世に残したいと考える私からすれば、”重大事件”だった。

約30年で、人間が”事実”が何かを確認することは容易ではない。過去を調べる者は、今の私のようにヒヤっとしたり、また時には跳んで喜ぶような発見をしたような気分になるものなのだろう。

作品名はホームページに発行順に記載する。


2014年2月24日月曜日

詩の課題を解決することが天職

 学校だよりという古い新聞記事の片隅に研究室訪問というコーナーがある。宇部高専が昭和41年(1965年)7月20日付けで発行した学校だよりで、上田敏雄教授に取材している。

英語を専攻された理由は、「英語を専攻したと言うより、詩を研究する道具として、また生活の資を得る手段として英語を教えています。我々、文科系の者は人生や文化に対して観念的に解決すべきものを感じます人生の持つ意義や意味を観念的に解決するには宗教による方法と文学による方法とがあるが、私は当時の詩の課題を解決することが天職であると信じてこの道に入りました。当時の詩の課題というのは、いわゆる「近代詩」(藤村、白秋などの業績)に対して「現代詩」(西脇順三郎、北園克衛、村野四郎などの詩集)の基礎を固めることでした。語学はその道具として必要になったわけです」

 「人生や文化に対して観念的に解決すべきものを感じます」。私は、まずこの一文をさらりと読みとばせない。「人生の持つ意義や意味を観念的に解決することは宗教による方法と文学による方法とがあるが、私は当時の詩の課題を解決することが天職であると信じてこの道に入りました。」 この文は、上田敏雄は宗教と文学で文学による方法を選び、詩の課題を解決することが天職であると信じたということだとわかる。つまり、そもそもは人生の持つ意義や意味を観念的に解決したいと思った、その手段が詩だったのだろうか?

 さらに上田敏雄は言う、
「人間社会を構成するには、君たちの進む工学によって物質的エネルギーを豊富にすることが必要ですが、それだけではローマ帝国や今日のアメリカに見られるような危機感が文化の中に生まれてきます。そのような危機感がどこからきているか、またどうやって解決するかを探るには文学や宗教に取り組むことが必要になってきます。ところが、今の高専の教養科目は断片的でこのような能力のあるエンジニアを養成できるか疑問に思います。また、社会の期待にこたえられる幅広い人格を持った人間になる為にも、君たちが自分で教養を深めるよう望みます。」
工学によって物質的エネルギーを豊富にすることに従事するエンジニアに、文化の中に生じてくる危機感をどう解決するか、宗教者や文学者とともに取り組むことが必要であることを理解し、そのような能力と幅広い人格を持とうとすることを期待しているということだろうか?

 現在インターネットや通信技術の進歩が人間社会と文化に与えている影響は大きく、「IT依存症」というコトバとともに私も危機感を感知している。そして、なにより、自分の生きる意味、自分の仕事の意味を自問するエンジニアが私のまわりにいる。「そのような危機感がどこからきているか、またどうやって解決するかを探る」時期だと思う。

 この学校だよりの記事を書いた方、そして参考のため私に送付してくれた叔母に感謝します。

2014年2月9日日曜日

鍵谷幸信の「沸騰詩人・上田敏雄」

鍵谷幸信氏の「沸騰詩人・上田敏雄」(『暦象』、1980年94号)は、私の好きなエッセイのひとつです。上田敏雄が発言した言葉そのままを引用し、人物像を上手に描写していると思います。

鍵谷幸信氏は、昭和三十二年秋ごろに上田敏雄が上京した際に、かってのシュルレアリスト、西脇順三郎、北園克衛、佐藤朔、三浦幸之助、上田保らが集結した際の様子を記述しています。いまどき1980年の『暦象』を見つけて読むのは容易ではないと思いますので、ほんの一部ですが引用します。

「朔君、ブルトンのシュルレアリスム第一宣言は何年だったかね」「一九二四年」と朔氏。君は相変わらず記憶力はいいな。昔とちっとも変わらん。 
ところで西脇先生、あんたも偉くなったもんだ。超自然主義も立派だね。だがあんたはシュルレアリスムもエリオットもわかってるように書くけど、実はよくわからんのじゃないのかね」「敏雄君のようにはわからんよ、いやわからおうとも思わない」「いやカトリックとマルクスと実存主義のX軸とY軸がわからんで、エリオットもブルトンもないもんだ。そうでしょう西脇さん」「ちょっと待って」と西脇順三郎。「いや西脇君、それはまちがいだ」。それから「君」がとれて「西脇」と呼びすてになり、敏雄氏の舌鋒はますますゾリンゲンの刈刀状になっていった。メートル西脇もいささかたじろいで、前言とりけしをやったりしていた。あんな西脇さんの姿をぼくはかつて見たことがなかったし、それ以後もない。<略> 
「ところで滝口が来てないがどうしたんかね」。滝口氏は風邪をひいて来れないという返事だった。「風邪かね。ふーん、シュルレアリストも風邪をひくんだね、どんな風邪かな、滝口がいないとつまらん、シュルレアリスムのほんとうのところは彼がいないとでけんよ。」この発言には全員が共鳴したようで、敏雄氏がその日喋った唯一のわかるコトバであった。北園、三浦の両氏は終始エッヘッへとかウフフとか笑い声を出して紅茶かなんか飲んでいた。
その場の様子が目に浮かぶような鍵谷幸信氏の文章のおかげで、私も微笑んでしまいます。
「ふーん、シュルレアリストも風邪をひくんだね、どんな風邪かな」 という、なにげない一言が私には面白いです。発言しているご本人はまわりを笑わすつもりはないと想像しますが、私にはそこがなんとなく祖父らしく感じるのか微笑ましいのです。

また、「敏雄氏がその日喋った唯一のわかるコトバであった。」と鍵谷氏が書いていることは、X軸もY軸もシュルレアリスムもエリオットもわからない私を安心させてくれます。

上田敏雄の詩やエッセイは、私の頭やリクツでわかろうとして読むとわかりませんが、上田敏雄の声で喋っているイメージで音読し、敏雄節というか、コトバの波、リズムのようなものに乗ることができると、面白かったりします。わかる、つまり理解するということと、感受するということは違います。絵画を鑑賞してわからなくても楽しめるように、私は沸騰詩人の喋ることがわからなくてもウフフと楽しめれば嬉しいです。

2014年1月28日火曜日

MON SURRÉALISME

真鍋正宏氏は、上田敏雄の作風に関し、『現代詩大辞典』(2008年、三省堂)に
「MON SURRÉALISME」と呼ばれ、他の超現実主義と傾向をややことにするその詩風
と明記し、特定のモチーフの利用、繰り返しの多用、固有名の引用、フランス語の多用、非日常的な修飾関係等を指摘しています。

「MON SURRÉALISME」は、日本語で「私の超現実主義」という意味です。上田敏雄は「上田敏雄の超現実主義」を生み出し変化させていったということでしょう。

上田敏雄の立場は、『仮説の運動』の時代の芸術の自立的なメカニズムを認める立場と対照的に、戦後はカトリシズム思想等外部からの概念導入なしに芸術世界の成立はないという立場に変化していったことについても、真鍋氏は記述しています。

上田敏雄は、晩年68歳の時点における日本の超現実主義グループを四つに分類しています。(「私のシュルレアリスム詩観」(1969年3月、『暦象 64』)
  • 超自然主義(西脇順三郎)
  • シュルレアリスム(瀧口修造)
  • アブストラクト(北園克衛)
  • 芸術のカトリック派:「神学の概念を詩論の範囲に導入する立場」(上田敏雄)
私は、この記述は、フランスの超現実主義グループ、また上田敏雄らが20歳代だった頃の日本の超現実主義グループからの変化をわかりやすく示していると思います。

「神学の概念を詩論の範囲に導入する立場」というのがどういう立場なのかは、私が一読してわかるものではなく、上田敏雄が書いた作品を時間をかけて読みたいと思います。

2014年1月21日火曜日

永遠のアバンギャルディスト

上田敏雄が日本の辞典でどのように記載されているかを読んでみました。

1986年の『日本近代文学大辞典』(講談社)から一部引用します。

永遠のアバンギャルディストとして晩年にいたるまで、詩と思想の『仮説の運動』(昭四・五 厚生閣書店)を展開。ユニークな詩的行動の背景には、つねに仏教、カトリシズム、マルキシズムへの主体的関心が生動している。とくに昭和前期の超現実主義運動の輝ける旗手として注目された。戦後も、「DEMAIN」(昭二七)を創刊。前衛詩人協会に参加するなど、独自のネオ・超現実主義を提唱した。
同1986年の『日本現代史辞典』(桜楓社)から一部下記に引用します。
日本における最初のシュールレアリスム宣言を、「薔薇魔術学説」の(昭三・一)に発表。超現実主義の旗手として、「衣裳の太陽」「詩と詩論」などで活躍。「文芸都市」「文芸レビュー」「文学」にも関係。戦後も前衛詩人協会に参加。仏教・カトリシズム・マルキシズムを主体的に止揚して、独自の、ネオ=超現実主義を提唱。
私の感想としては、上田敏雄の研究をした方が、限られた文字内で使った言葉として、永遠のアバンギャルディストという表現の仕方が素敵だと思いました。また、超現実主義運動の輝ける旗手、独自のネオ・超現実主義を提唱というまとめ方もみごとだと思いました。

上田敏雄が学生時代に書いた詩に着目したのは萩原朔太郎。「冬」という短い詩に、モダニズム詩の芽のようなものが感じとれたのでしょうか?そこから上田敏雄はフランスのシュールレアリスム詩運動に触れます。そして、日本における最初のシュールレアリスム宣言を北園克衛と上田保(実弟)と発表したわけですが、フランスのブルトンらの運動に賛同しながらも、同じものを継承するのではなくブルトンとは違うものを創造する立場に立っていたことに私は注目すべきだと思います。実際に、上田敏雄は、『仮説の運動』で、ブルトンとは異なる詩論を提唱することを明白にしています。上田敏雄というと、一般的にはシュールレアリスム宣言をしたシュールレアリストだという知識で『仮説の運動』もいわゆるフランスのシュールレアリスムと類似したものなのかしらと思われる方がいらっしゃるかと思いますが、是非同じではなく違うという点に着目していただければと思います。の後も、上田敏雄は自らの仮説の詩論とその芸術論を変革していきました。後年の上田敏雄から中野嘉一への書簡によれば、上田敏雄は「芸術に対する考え方が、芸術の世界に autonomous メカニズムがみとめられているという考え方から外部から世界内への概念の導入なしに芸術の世界は成立しないだろうという考え方に変化した」と述べています。それが、仏教・カトリシズム・マルキシズムを主体的に止揚して独自のネオ=超現実主義を提唱することにつながっていきます。上田敏雄は、自らの詩論に満足せず、周囲がその斬新さに賛同または批判している間にも、自らの詩論を変化させていったように私は想像しています。したがって、永遠のアバンギャルディストという表現が私にはしっくりと響きます。

この度とりあげた上記辞典で上田敏雄欄を担当された方は千葉宣一氏です。千葉宣一氏に興味を持ちインターネットで検索してみたところ、北海学園学術情報リポジトリで名前を見つけることができました。そしてそこには2010年7月31日付け論文「日仏文学交流史の研究」が掲載されており、ポール・エリュアールの解説として日本では昭和二年五月『文芸耽美』に上田敏雄により紹介されたと記されていました。また新たな情報を発掘した気分になり嬉しいです。千葉宣一氏のような専門家がいらっしゃることをありがたいと思います。

2014年1月14日火曜日

校歌作詞者・上田敏雄の資料展示中

上田敏雄は、山口大学退官後、昭和37年度に宇部工業高等専門学校教授に就任しました。

宇部高等専門学校の校歌は上田敏雄が作詞したものです。
平成25年11月8日(金)の新聞宇部日報(宇部日報社発行)によると、「校歌は67年の第1期生の卒業にあわせて公募が行われたもの」だそうです。

宇部高等専門学校がこのたび特設コーナーで展示している資料には、校歌作詞に関する直筆の書簡に加え、上田敏雄の詩人としての作品が含まれています。

上田敏雄は、校歌の作詞にあたり、山口大学での教え子である山本博信氏に助言を求めました。この度の展示に関して、企画されたスタッフの方、また説明資料の作成等をしてくださった山本さんにとても感謝しております。上田敏雄本人と面識のある方々が年々ご高齢になる中、資料の作成や展示会の実施そのものが、容易ではなかったと存じます。

山本さんが作成した資料「校歌作詞者・上田敏雄 ~日本で最初のシュールレアリスム詩人~」を拝読させて頂き、「上田先生の詩作品の解説」の欄に、「まさにシュールな詩であり、安易な解説など受け付けない。この展示では、したがって、いわゆる一般的な解説は断念して、読まれる方の自由なイメージにゆだねることにした。それこそがまさにシュールレアリスムの真骨頂だからである。あなたの豊かで自由な想念の羽ばたくままに、鑑賞なさってください。」と書かれていることに同感しました。

私が上田敏雄作品を読む際に、よくわからないため、ついついヒントとなるような解説があれば助かるのにと思いがちなのですが、自分で観想するものなのだとあらためて思いました。

2014年1月6日月曜日

母の『資料国文学史』と「詩と詩論」

あけましておめでとうございます。
今年も、このブログとともに、祖父のリサーチを続けたいと思っております。

私は、正月は実家で両親と家族とともに新年を祝いました。昨年末に、母から貸した本を持ってきて返して欲しいと電話がありました。『資料国文学史』を早く返して欲しいとのこと。

母が国文学を学んだ際に使った『資料国文学史』は昭和28年に初版が発行された書籍です。

松尾聡が編者で1953年に清水書院が発行した『資料国文学史』の六編(近代・現代)第十三章(昭和の詩壇展望)より一部抜粋して下記に記します。
「詩と詩論」(昭和三-六)は春山行夫、北側冬彦を始めとして、安西冬衛、北園克衛、坂本越郎、三好達治、渡辺修三、飯島正、上田敏雄、滝口武士、竹中郁、近藤東、外山卯三郎、神原泰、西脇順三郎、吉田一穂、堀辰雄等、半無産派陣営の多くの詩人を結集した詩誌で、フランスのポエジイ運動を継承し、前期の詩壇を支配した自由詩の非詩性を指摘して新散文詩運動を興し、新しい現代詩の確立に努力した。またこの一派がシュール・リアリズム(超現実主義)の傾向を多分に示していたのもその特色であった。
国文学史を習う際に参考資料に父の名前が載っている気持ちというのはどういうものなのだろうかと思いをはせながら、大切な本は母の手元に戻しました。