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2014年1月28日火曜日

MON SURRÉALISME

真鍋正宏氏は、上田敏雄の作風に関し、『現代詩大辞典』(2008年、三省堂)に
「MON SURRÉALISME」と呼ばれ、他の超現実主義と傾向をややことにするその詩風
と明記し、特定のモチーフの利用、繰り返しの多用、固有名の引用、フランス語の多用、非日常的な修飾関係等を指摘しています。

「MON SURRÉALISME」は、日本語で「私の超現実主義」という意味です。上田敏雄は「上田敏雄の超現実主義」を生み出し変化させていったということでしょう。

上田敏雄の立場は、『仮説の運動』の時代の芸術の自立的なメカニズムを認める立場と対照的に、戦後はカトリシズム思想等外部からの概念導入なしに芸術世界の成立はないという立場に変化していったことについても、真鍋氏は記述しています。

上田敏雄は、晩年68歳の時点における日本の超現実主義グループを四つに分類しています。(「私のシュルレアリスム詩観」(1969年3月、『暦象 64』)
  • 超自然主義(西脇順三郎)
  • シュルレアリスム(瀧口修造)
  • アブストラクト(北園克衛)
  • 芸術のカトリック派:「神学の概念を詩論の範囲に導入する立場」(上田敏雄)
私は、この記述は、フランスの超現実主義グループ、また上田敏雄らが20歳代だった頃の日本の超現実主義グループからの変化をわかりやすく示していると思います。

「神学の概念を詩論の範囲に導入する立場」というのがどういう立場なのかは、私が一読してわかるものではなく、上田敏雄が書いた作品を時間をかけて読みたいと思います。

2014年1月21日火曜日

永遠のアバンギャルディスト

上田敏雄が日本の辞典でどのように記載されているかを読んでみました。

1986年の『日本近代文学大辞典』(講談社)から一部引用します。

永遠のアバンギャルディストとして晩年にいたるまで、詩と思想の『仮説の運動』(昭四・五 厚生閣書店)を展開。ユニークな詩的行動の背景には、つねに仏教、カトリシズム、マルキシズムへの主体的関心が生動している。とくに昭和前期の超現実主義運動の輝ける旗手として注目された。戦後も、「DEMAIN」(昭二七)を創刊。前衛詩人協会に参加するなど、独自のネオ・超現実主義を提唱した。
同1986年の『日本現代史辞典』(桜楓社)から一部下記に引用します。
日本における最初のシュールレアリスム宣言を、「薔薇魔術学説」の(昭三・一)に発表。超現実主義の旗手として、「衣裳の太陽」「詩と詩論」などで活躍。「文芸都市」「文芸レビュー」「文学」にも関係。戦後も前衛詩人協会に参加。仏教・カトリシズム・マルキシズムを主体的に止揚して、独自の、ネオ=超現実主義を提唱。
私の感想としては、上田敏雄の研究をした方が、限られた文字内で使った言葉として、永遠のアバンギャルディストという表現の仕方が素敵だと思いました。また、超現実主義運動の輝ける旗手、独自のネオ・超現実主義を提唱というまとめ方もみごとだと思いました。

上田敏雄が学生時代に書いた詩に着目したのは萩原朔太郎。「冬」という短い詩に、モダニズム詩の芽のようなものが感じとれたのでしょうか?そこから上田敏雄はフランスのシュールレアリスム詩運動に触れます。そして、日本における最初のシュールレアリスム宣言を北園克衛と上田保(実弟)と発表したわけですが、フランスのブルトンらの運動に賛同しながらも、同じものを継承するのではなくブルトンとは違うものを創造する立場に立っていたことに私は注目すべきだと思います。実際に、上田敏雄は、『仮説の運動』で、ブルトンとは異なる詩論を提唱することを明白にしています。上田敏雄というと、一般的にはシュールレアリスム宣言をしたシュールレアリストだという知識で『仮説の運動』もいわゆるフランスのシュールレアリスムと類似したものなのかしらと思われる方がいらっしゃるかと思いますが、是非同じではなく違うという点に着目していただければと思います。の後も、上田敏雄は自らの仮説の詩論とその芸術論を変革していきました。後年の上田敏雄から中野嘉一への書簡によれば、上田敏雄は「芸術に対する考え方が、芸術の世界に autonomous メカニズムがみとめられているという考え方から外部から世界内への概念の導入なしに芸術の世界は成立しないだろうという考え方に変化した」と述べています。それが、仏教・カトリシズム・マルキシズムを主体的に止揚して独自のネオ=超現実主義を提唱することにつながっていきます。上田敏雄は、自らの詩論に満足せず、周囲がその斬新さに賛同または批判している間にも、自らの詩論を変化させていったように私は想像しています。したがって、永遠のアバンギャルディストという表現が私にはしっくりと響きます。

この度とりあげた上記辞典で上田敏雄欄を担当された方は千葉宣一氏です。千葉宣一氏に興味を持ちインターネットで検索してみたところ、北海学園学術情報リポジトリで名前を見つけることができました。そしてそこには2010年7月31日付け論文「日仏文学交流史の研究」が掲載されており、ポール・エリュアールの解説として日本では昭和二年五月『文芸耽美』に上田敏雄により紹介されたと記されていました。また新たな情報を発掘した気分になり嬉しいです。千葉宣一氏のような専門家がいらっしゃることをありがたいと思います。

2014年1月14日火曜日

校歌作詞者・上田敏雄の資料展示中

上田敏雄は、山口大学退官後、昭和37年度に宇部工業高等専門学校教授に就任しました。

宇部高等専門学校の校歌は上田敏雄が作詞したものです。
平成25年11月8日(金)の新聞宇部日報(宇部日報社発行)によると、「校歌は67年の第1期生の卒業にあわせて公募が行われたもの」だそうです。

宇部高等専門学校がこのたび特設コーナーで展示している資料には、校歌作詞に関する直筆の書簡に加え、上田敏雄の詩人としての作品が含まれています。

上田敏雄は、校歌の作詞にあたり、山口大学での教え子である山本博信氏に助言を求めました。この度の展示に関して、企画されたスタッフの方、また説明資料の作成等をしてくださった山本さんにとても感謝しております。上田敏雄本人と面識のある方々が年々ご高齢になる中、資料の作成や展示会の実施そのものが、容易ではなかったと存じます。

山本さんが作成した資料「校歌作詞者・上田敏雄 ~日本で最初のシュールレアリスム詩人~」を拝読させて頂き、「上田先生の詩作品の解説」の欄に、「まさにシュールな詩であり、安易な解説など受け付けない。この展示では、したがって、いわゆる一般的な解説は断念して、読まれる方の自由なイメージにゆだねることにした。それこそがまさにシュールレアリスムの真骨頂だからである。あなたの豊かで自由な想念の羽ばたくままに、鑑賞なさってください。」と書かれていることに同感しました。

私が上田敏雄作品を読む際に、よくわからないため、ついついヒントとなるような解説があれば助かるのにと思いがちなのですが、自分で観想するものなのだとあらためて思いました。

2014年1月6日月曜日

母の『資料国文学史』と「詩と詩論」

あけましておめでとうございます。
今年も、このブログとともに、祖父のリサーチを続けたいと思っております。

私は、正月は実家で両親と家族とともに新年を祝いました。昨年末に、母から貸した本を持ってきて返して欲しいと電話がありました。『資料国文学史』を早く返して欲しいとのこと。

母が国文学を学んだ際に使った『資料国文学史』は昭和28年に初版が発行された書籍です。

松尾聡が編者で1953年に清水書院が発行した『資料国文学史』の六編(近代・現代)第十三章(昭和の詩壇展望)より一部抜粋して下記に記します。
「詩と詩論」(昭和三-六)は春山行夫、北側冬彦を始めとして、安西冬衛、北園克衛、坂本越郎、三好達治、渡辺修三、飯島正、上田敏雄、滝口武士、竹中郁、近藤東、外山卯三郎、神原泰、西脇順三郎、吉田一穂、堀辰雄等、半無産派陣営の多くの詩人を結集した詩誌で、フランスのポエジイ運動を継承し、前期の詩壇を支配した自由詩の非詩性を指摘して新散文詩運動を興し、新しい現代詩の確立に努力した。またこの一派がシュール・リアリズム(超現実主義)の傾向を多分に示していたのもその特色であった。
国文学史を習う際に参考資料に父の名前が載っている気持ちというのはどういうものなのだろうかと思いをはせながら、大切な本は母の手元に戻しました。