ページ

2014年11月23日日曜日

「神について」 『三田文学』 より

 上田敏雄はなぜ神を詩作にとりいれるようになったのだろうか?

 上田敏雄の作品の調査を始め一覧にしてみてわかったことがある。

 「神」が出てくるのは1948年11月戦後初めて『三田文学』に発表された「主は働き給ふ」である。

 そしてその3ヶ月後、『三田文学』に「神について」を書いている。

 西脇順三郎、山本健吉、上田敏雄が「神について」という題で記した文章の始まりを引用する。

 まず西脇順三郎は、

 原君、君はわざわざ病身の身体を動かして、僕を二度も訪ねて来て、「神について」六枚書けと頼んだのだから、どうしても書きたいのだが、この問題ばかりは、避けたいのだ。それは僕は弱い人間で、この問題は僕には大きすぎる。
そして約二枚執筆。

 次に山本健吉は、
 "Jesus Christ!"といふ若い女のいとも朗らかな叫び声の中に、現代の神が象徴されている。神の姿なぞ誰の頭の中にも宿っていやしない。あるのはただ浮薄な言葉ばかりだ。

 そして最後に上田敏雄は、

 詩人の官能の中に、神は神として来ない。絶望の火として来るこの雷の足跡には、併し、 実に神の臭がする。私は文学作品を詩人のInventionであるとする立場をとらない。文学の組織を神のInventionに依る、神のdeviceに依るとする立場の方を好む。詩人は神の創立経営指導する工場の労働者であってよいと思ふ。従って、文学の中心は不変で進歩を欠いていてよいと思ふ。
  神とするのは、処女マリアより生れ、十字架にかかり、三日にして甦り給ふた神の子イエスクリストである。諸氏は、詩人としてこれは妙な趣味ではないかと尋ねられるかも知れない。果して、さうだらうかと、僕は反問したい。この際諸氏が些か滑稽味を覚えられるなら、それは諸氏の神観念が滑稽であるに過ぎぬのではあるまいか。僕の意見としては、これはこの世で一番辛い胡椒であると思ふ。
 原さんという人が西脇順三郎に六枚依頼したようなので、上田敏雄は西脇順三郎に声をかけられて応じたのだろうか。

 いずれにしろ、芸術の自律的なメカニズムを認める立場から、カトリシズム・仏教思想等の外部からの概念導入なしに芸術世界の成立はないという立場に変化したのは、戦後からのようである。

 鶴岡善久は、上田敏雄の追悼号である『歴象98号』に「上田敏雄の戦中戦後」というエッセイで「上田敏雄はいわゆる戦争詩を一篇も書かなかった。これはきわめて重要なことである。」と記している。また「戦前の「仮説の運動」と戦後しばらくしてからのドグマ的カトリシズムの時代にはさまれた、上田敏雄の戦中戦後は今後もっと真剣に考えてみなければならない問題を内包しているようにぼくには思われる。」とも記している。

 第二次世界大戦が上田敏雄に影響を与えたと想像するのは難しくない。東京の空襲を経験し、家は大空襲で消失。戦争で兄弟と甥を失った。

 上田敏雄はキリスト教や仏教に関する多くの書物を読んでいる。戦争の経験から、キリスト教を研究するようにいたったのだろうか?

 辛い体験をした人が、宗教に入信するということは耳にする。しかし、上田敏雄の「神について」の文章を読む限り、いわゆる信者が述べそうなこととは異なり、一歩ひいた立場で思考を組み立てながら執筆している様子がうかがえる。

 上田敏雄は書いている。「この際諸氏が些か滑稽味を覚えられるなら、それは諸氏の神観念が滑稽であるに過ぎぬのではあるまいか。」 私は、滑稽だと思った一人である。上田敏雄が「この世で一番辛い胡椒」にどうアプローチしていくのか、続きを読んでみたくなった。

0 件のコメント:

コメントを投稿