ページ

2014年2月24日月曜日

詩の課題を解決することが天職

 学校だよりという古い新聞記事の片隅に研究室訪問というコーナーがある。宇部高専が昭和41年(1965年)7月20日付けで発行した学校だよりで、上田敏雄教授に取材している。

英語を専攻された理由は、「英語を専攻したと言うより、詩を研究する道具として、また生活の資を得る手段として英語を教えています。我々、文科系の者は人生や文化に対して観念的に解決すべきものを感じます人生の持つ意義や意味を観念的に解決するには宗教による方法と文学による方法とがあるが、私は当時の詩の課題を解決することが天職であると信じてこの道に入りました。当時の詩の課題というのは、いわゆる「近代詩」(藤村、白秋などの業績)に対して「現代詩」(西脇順三郎、北園克衛、村野四郎などの詩集)の基礎を固めることでした。語学はその道具として必要になったわけです」

 「人生や文化に対して観念的に解決すべきものを感じます」。私は、まずこの一文をさらりと読みとばせない。「人生の持つ意義や意味を観念的に解決することは宗教による方法と文学による方法とがあるが、私は当時の詩の課題を解決することが天職であると信じてこの道に入りました。」 この文は、上田敏雄は宗教と文学で文学による方法を選び、詩の課題を解決することが天職であると信じたということだとわかる。つまり、そもそもは人生の持つ意義や意味を観念的に解決したいと思った、その手段が詩だったのだろうか?

 さらに上田敏雄は言う、
「人間社会を構成するには、君たちの進む工学によって物質的エネルギーを豊富にすることが必要ですが、それだけではローマ帝国や今日のアメリカに見られるような危機感が文化の中に生まれてきます。そのような危機感がどこからきているか、またどうやって解決するかを探るには文学や宗教に取り組むことが必要になってきます。ところが、今の高専の教養科目は断片的でこのような能力のあるエンジニアを養成できるか疑問に思います。また、社会の期待にこたえられる幅広い人格を持った人間になる為にも、君たちが自分で教養を深めるよう望みます。」
工学によって物質的エネルギーを豊富にすることに従事するエンジニアに、文化の中に生じてくる危機感をどう解決するか、宗教者や文学者とともに取り組むことが必要であることを理解し、そのような能力と幅広い人格を持とうとすることを期待しているということだろうか?

 現在インターネットや通信技術の進歩が人間社会と文化に与えている影響は大きく、「IT依存症」というコトバとともに私も危機感を感知している。そして、なにより、自分の生きる意味、自分の仕事の意味を自問するエンジニアが私のまわりにいる。「そのような危機感がどこからきているか、またどうやって解決するかを探る」時期だと思う。

 この学校だよりの記事を書いた方、そして参考のため私に送付してくれた叔母に感謝します。

2014年2月9日日曜日

鍵谷幸信の「沸騰詩人・上田敏雄」

鍵谷幸信氏の「沸騰詩人・上田敏雄」(『暦象』、1980年94号)は、私の好きなエッセイのひとつです。上田敏雄が発言した言葉そのままを引用し、人物像を上手に描写していると思います。

鍵谷幸信氏は、昭和三十二年秋ごろに上田敏雄が上京した際に、かってのシュルレアリスト、西脇順三郎、北園克衛、佐藤朔、三浦幸之助、上田保らが集結した際の様子を記述しています。いまどき1980年の『暦象』を見つけて読むのは容易ではないと思いますので、ほんの一部ですが引用します。

「朔君、ブルトンのシュルレアリスム第一宣言は何年だったかね」「一九二四年」と朔氏。君は相変わらず記憶力はいいな。昔とちっとも変わらん。 
ところで西脇先生、あんたも偉くなったもんだ。超自然主義も立派だね。だがあんたはシュルレアリスムもエリオットもわかってるように書くけど、実はよくわからんのじゃないのかね」「敏雄君のようにはわからんよ、いやわからおうとも思わない」「いやカトリックとマルクスと実存主義のX軸とY軸がわからんで、エリオットもブルトンもないもんだ。そうでしょう西脇さん」「ちょっと待って」と西脇順三郎。「いや西脇君、それはまちがいだ」。それから「君」がとれて「西脇」と呼びすてになり、敏雄氏の舌鋒はますますゾリンゲンの刈刀状になっていった。メートル西脇もいささかたじろいで、前言とりけしをやったりしていた。あんな西脇さんの姿をぼくはかつて見たことがなかったし、それ以後もない。<略> 
「ところで滝口が来てないがどうしたんかね」。滝口氏は風邪をひいて来れないという返事だった。「風邪かね。ふーん、シュルレアリストも風邪をひくんだね、どんな風邪かな、滝口がいないとつまらん、シュルレアリスムのほんとうのところは彼がいないとでけんよ。」この発言には全員が共鳴したようで、敏雄氏がその日喋った唯一のわかるコトバであった。北園、三浦の両氏は終始エッヘッへとかウフフとか笑い声を出して紅茶かなんか飲んでいた。
その場の様子が目に浮かぶような鍵谷幸信氏の文章のおかげで、私も微笑んでしまいます。
「ふーん、シュルレアリストも風邪をひくんだね、どんな風邪かな」 という、なにげない一言が私には面白いです。発言しているご本人はまわりを笑わすつもりはないと想像しますが、私にはそこがなんとなく祖父らしく感じるのか微笑ましいのです。

また、「敏雄氏がその日喋った唯一のわかるコトバであった。」と鍵谷氏が書いていることは、X軸もY軸もシュルレアリスムもエリオットもわからない私を安心させてくれます。

上田敏雄の詩やエッセイは、私の頭やリクツでわかろうとして読むとわかりませんが、上田敏雄の声で喋っているイメージで音読し、敏雄節というか、コトバの波、リズムのようなものに乗ることができると、面白かったりします。わかる、つまり理解するということと、感受するということは違います。絵画を鑑賞してわからなくても楽しめるように、私は沸騰詩人の喋ることがわからなくてもウフフと楽しめれば嬉しいです。

2014年1月28日火曜日

MON SURRÉALISME

真鍋正宏氏は、上田敏雄の作風に関し、『現代詩大辞典』(2008年、三省堂)に
「MON SURRÉALISME」と呼ばれ、他の超現実主義と傾向をややことにするその詩風
と明記し、特定のモチーフの利用、繰り返しの多用、固有名の引用、フランス語の多用、非日常的な修飾関係等を指摘しています。

「MON SURRÉALISME」は、日本語で「私の超現実主義」という意味です。上田敏雄は「上田敏雄の超現実主義」を生み出し変化させていったということでしょう。

上田敏雄の立場は、『仮説の運動』の時代の芸術の自立的なメカニズムを認める立場と対照的に、戦後はカトリシズム思想等外部からの概念導入なしに芸術世界の成立はないという立場に変化していったことについても、真鍋氏は記述しています。

上田敏雄は、晩年68歳の時点における日本の超現実主義グループを四つに分類しています。(「私のシュルレアリスム詩観」(1969年3月、『暦象 64』)
  • 超自然主義(西脇順三郎)
  • シュルレアリスム(瀧口修造)
  • アブストラクト(北園克衛)
  • 芸術のカトリック派:「神学の概念を詩論の範囲に導入する立場」(上田敏雄)
私は、この記述は、フランスの超現実主義グループ、また上田敏雄らが20歳代だった頃の日本の超現実主義グループからの変化をわかりやすく示していると思います。

「神学の概念を詩論の範囲に導入する立場」というのがどういう立場なのかは、私が一読してわかるものではなく、上田敏雄が書いた作品を時間をかけて読みたいと思います。

2014年1月21日火曜日

永遠のアバンギャルディスト

上田敏雄が日本の辞典でどのように記載されているかを読んでみました。

1986年の『日本近代文学大辞典』(講談社)から一部引用します。

永遠のアバンギャルディストとして晩年にいたるまで、詩と思想の『仮説の運動』(昭四・五 厚生閣書店)を展開。ユニークな詩的行動の背景には、つねに仏教、カトリシズム、マルキシズムへの主体的関心が生動している。とくに昭和前期の超現実主義運動の輝ける旗手として注目された。戦後も、「DEMAIN」(昭二七)を創刊。前衛詩人協会に参加するなど、独自のネオ・超現実主義を提唱した。
同1986年の『日本現代史辞典』(桜楓社)から一部下記に引用します。
日本における最初のシュールレアリスム宣言を、「薔薇魔術学説」の(昭三・一)に発表。超現実主義の旗手として、「衣裳の太陽」「詩と詩論」などで活躍。「文芸都市」「文芸レビュー」「文学」にも関係。戦後も前衛詩人協会に参加。仏教・カトリシズム・マルキシズムを主体的に止揚して、独自の、ネオ=超現実主義を提唱。
私の感想としては、上田敏雄の研究をした方が、限られた文字内で使った言葉として、永遠のアバンギャルディストという表現の仕方が素敵だと思いました。また、超現実主義運動の輝ける旗手、独自のネオ・超現実主義を提唱というまとめ方もみごとだと思いました。

上田敏雄が学生時代に書いた詩に着目したのは萩原朔太郎。「冬」という短い詩に、モダニズム詩の芽のようなものが感じとれたのでしょうか?そこから上田敏雄はフランスのシュールレアリスム詩運動に触れます。そして、日本における最初のシュールレアリスム宣言を北園克衛と上田保(実弟)と発表したわけですが、フランスのブルトンらの運動に賛同しながらも、同じものを継承するのではなくブルトンとは違うものを創造する立場に立っていたことに私は注目すべきだと思います。実際に、上田敏雄は、『仮説の運動』で、ブルトンとは異なる詩論を提唱することを明白にしています。上田敏雄というと、一般的にはシュールレアリスム宣言をしたシュールレアリストだという知識で『仮説の運動』もいわゆるフランスのシュールレアリスムと類似したものなのかしらと思われる方がいらっしゃるかと思いますが、是非同じではなく違うという点に着目していただければと思います。の後も、上田敏雄は自らの仮説の詩論とその芸術論を変革していきました。後年の上田敏雄から中野嘉一への書簡によれば、上田敏雄は「芸術に対する考え方が、芸術の世界に autonomous メカニズムがみとめられているという考え方から外部から世界内への概念の導入なしに芸術の世界は成立しないだろうという考え方に変化した」と述べています。それが、仏教・カトリシズム・マルキシズムを主体的に止揚して独自のネオ=超現実主義を提唱することにつながっていきます。上田敏雄は、自らの詩論に満足せず、周囲がその斬新さに賛同または批判している間にも、自らの詩論を変化させていったように私は想像しています。したがって、永遠のアバンギャルディストという表現が私にはしっくりと響きます。

この度とりあげた上記辞典で上田敏雄欄を担当された方は千葉宣一氏です。千葉宣一氏に興味を持ちインターネットで検索してみたところ、北海学園学術情報リポジトリで名前を見つけることができました。そしてそこには2010年7月31日付け論文「日仏文学交流史の研究」が掲載されており、ポール・エリュアールの解説として日本では昭和二年五月『文芸耽美』に上田敏雄により紹介されたと記されていました。また新たな情報を発掘した気分になり嬉しいです。千葉宣一氏のような専門家がいらっしゃることをありがたいと思います。

2014年1月14日火曜日

校歌作詞者・上田敏雄の資料展示中

上田敏雄は、山口大学退官後、昭和37年度に宇部工業高等専門学校教授に就任しました。

宇部高等専門学校の校歌は上田敏雄が作詞したものです。
平成25年11月8日(金)の新聞宇部日報(宇部日報社発行)によると、「校歌は67年の第1期生の卒業にあわせて公募が行われたもの」だそうです。

宇部高等専門学校がこのたび特設コーナーで展示している資料には、校歌作詞に関する直筆の書簡に加え、上田敏雄の詩人としての作品が含まれています。

上田敏雄は、校歌の作詞にあたり、山口大学での教え子である山本博信氏に助言を求めました。この度の展示に関して、企画されたスタッフの方、また説明資料の作成等をしてくださった山本さんにとても感謝しております。上田敏雄本人と面識のある方々が年々ご高齢になる中、資料の作成や展示会の実施そのものが、容易ではなかったと存じます。

山本さんが作成した資料「校歌作詞者・上田敏雄 ~日本で最初のシュールレアリスム詩人~」を拝読させて頂き、「上田先生の詩作品の解説」の欄に、「まさにシュールな詩であり、安易な解説など受け付けない。この展示では、したがって、いわゆる一般的な解説は断念して、読まれる方の自由なイメージにゆだねることにした。それこそがまさにシュールレアリスムの真骨頂だからである。あなたの豊かで自由な想念の羽ばたくままに、鑑賞なさってください。」と書かれていることに同感しました。

私が上田敏雄作品を読む際に、よくわからないため、ついついヒントとなるような解説があれば助かるのにと思いがちなのですが、自分で観想するものなのだとあらためて思いました。

2014年1月6日月曜日

母の『資料国文学史』と「詩と詩論」

あけましておめでとうございます。
今年も、このブログとともに、祖父のリサーチを続けたいと思っております。

私は、正月は実家で両親と家族とともに新年を祝いました。昨年末に、母から貸した本を持ってきて返して欲しいと電話がありました。『資料国文学史』を早く返して欲しいとのこと。

母が国文学を学んだ際に使った『資料国文学史』は昭和28年に初版が発行された書籍です。

松尾聡が編者で1953年に清水書院が発行した『資料国文学史』の六編(近代・現代)第十三章(昭和の詩壇展望)より一部抜粋して下記に記します。
「詩と詩論」(昭和三-六)は春山行夫、北側冬彦を始めとして、安西冬衛、北園克衛、坂本越郎、三好達治、渡辺修三、飯島正、上田敏雄、滝口武士、竹中郁、近藤東、外山卯三郎、神原泰、西脇順三郎、吉田一穂、堀辰雄等、半無産派陣営の多くの詩人を結集した詩誌で、フランスのポエジイ運動を継承し、前期の詩壇を支配した自由詩の非詩性を指摘して新散文詩運動を興し、新しい現代詩の確立に努力した。またこの一派がシュール・リアリズム(超現実主義)の傾向を多分に示していたのもその特色であった。
国文学史を習う際に参考資料に父の名前が載っている気持ちというのはどういうものなのだろうかと思いをはせながら、大切な本は母の手元に戻しました。

2013年12月18日水曜日

Toshio Ueda どびんごと上田敏雄

『おう どびんご よくきたな』
大道の ガラガラとなる ドアを開けたら
おじいちゃんは 玄関にいて 二カッと笑った

どびんごって なにかわからないけど
おじいちゃんが わたしのこと 
どびんごって よんだことは わかった

おばあちゃんも 玄関にでてきて
『まあまあ とにかく おあがりなさい』
大道の おうちの におい

東京に住む 私の両親は
ほぼ毎年 夏になると 山口県に帰省した
母の実家は防府市大道

私が覚えているのは二歳半ぐらいのころから
富海で 舟をこいでくれた おじいちゃん
麦藁帽で よく畑にいった おじいちゃん

いくつか 覚えている イメージはあるけれど
今でも覚えている ことばは どびんご!

私は成長するにつれ おじいちゃん 上田敏雄は
前衛詩人といわれた 稀有な詩人だと知った

おじいちゃんが 書いた詩を読んだ 
頭ではわからないけど 凄いエネルギー

最近では インターネットで検索すれば
名前をつぶやいている 人がいたり
アメリカの大学誌に 掲載されていたり

私も 上田敏雄のことを もっと知りたい
私も 文章で 想いを残したい


本ブログでは 私の個人的な想いを書くつもりです
もしも ご興味があれば 読んでみてください

本日はここまで 
これから よろしくお願いします